介助犬がいく！

週刊金曜日９８年８月２８日号

　東京都西多摩郡瑞穂町在住の野口利男さん（四七）は、一九九〇年から家に篭り始めた。筋ジストロフィーの進行で、料理も車の運転も、それまでできたことのほとんどが不可能になってしまったことが原因だった。
「とにかく、外に出るのがイヤになってしまったんです。こんな体で外に出て、人に迷惑をかけたくないとも思ったんです」
　家に篭ってから四年後の九四年一月、野口さんの日が、ある新開記事に留まった――国産初の介助犬誕生。「行ってみたいな」。　漠然とした思いだった。
　二月上旬、介助犬を育成していた矢澤知枝さん（二九歳、当時「介助犬協会」（現：全国介助犬協会）トレーナー）の元を訪れ、そこで介助犬・グレーデル（オス、当時二歳）に出会う。「犬と目が合った瞬間に思ったんです。この犬、ウチに来るかもしれないって」

心の底から犬を誉める

　在宅ケアが本業だった矢澤さんには、介助犬育成の経験はまったくなかった。知人に「トレーナーになってほしい」と頻まれたのがそのきっかけだったが、たった一つの材料だけは持っていた。それはその数年前、アメリカでの福祉の研修中、試行錯誤を繰り返すトレーナーたちを目の当たリにした体験だった。一〇〇〇頭も介助犬のいるアメリカでも育成マニュアルはなかったのである。
　（試行錯誤でいいんなら…）
「初めの二カ月は失敗ばかりでした。でも原因は私にあったんです」
　グレーデルは、歩きながらの放尿、ほかの犬に吠えることを繰り返す犬だった。介助犬にあってはならないことである．矢澤さんは焦っていた。その都度その都度、目を見つめて注意した。だが、直らない。そんな矢澤さんが接していたグレーデル自身も「焦ってどうしていいかわからなくなっていた」と言う。
　ある日、矢薄さんは犬の目がオドオドと何か訴えているのを感じ取る。そこで反省した一「まず、私が変わらねば……」。翌日からは、吠えても落ち着いて対処しようと決めた。その気持ちが通じたのか、グレーデルは翌日からビタリと、オシッコの失敗も吠えることもなくなったのだ。
　犬にはそれぞれ適性がある。その得意分野に応じて、介助犬には以下のことが求められている。杖歩行の補助として背中を貸す、車椅子使用者の身の回り細かい世話（物を給う、ドアを開ける、靴下を脱がすなど）、車椅子の移動の補助などだ。電動車椅子を使用する野口さんには、身の回りの世話が得意なグレーデルは向いていた。
　野口さんのほかにもレシピエント（持ち主）候補者は数人いたが、野口さんの直感通り、犬と一番相性があった野口さんがグレーデルと暮らすことになった。だが、最初からすんなりといったわけではない。
　四月から一カ月間、自宅でのトレーナーとの合同トレーニングでは、矢澤さんが帰ってしまうとグレーデルは窓の外ばかり見て、言うことをさっぱり聞いてくれなかった。また、訓練は野口さんにとつては体力的に厳しく、矢澤さんのように、指示に従った犬を人前で「グツボーイ（いい子ね！）」と誉めることへの気恥ずかしさもあった。
「野口さん、誉める時は心から誉めてくだきい」
「ちょっと恥ずかしいなあ」
　だが、今に見てろよと、野口さんはくじけなかった。そして、生活に徐々に変化が現れた。散歩のために外出が増え、近所の人とは挨拶だけでなく、犬がいることで会話が弾むようになった。少しずつ明るい気持ちが犬に向けられていった。
　そして八月のある日、公園で散歩の時。気づくと、グレーデルが口さんの額をチラチラと気にし始めていた。
「その瞬間でした。風が運んできた草の匂い、日差しの暖かさを感じとったんです。もう何年もなかったことでした。そして反省したんです。僕は、調練した犬だから、何でも言うことをきく道具だと思つていたって。そんな気持ちを犬は察知していたんです」
　この日を境に、グレーデルは野口さんの指示を喜んで受け、野ロさんは、心の底からグレーデルを誉めることができるようになった。

自分の犬が介助犬に

　八七年一二月二五日、兵庫県宝塚市の木村佳友さん（三八）はバイクで通勤途中、凍結した道路のカーブで転用し、頚髄潰傷となり、首から下が麻痺した体になった。
　三年半のリハビリ後、コンビュータを使う在宅業務が確保できた。だが、床に落ちたフロッピーなどを無理に拾おうとして車椅子から転倒し、妻の美智子さんが仕事から帰るまで床に転がっていたことがいく度かあった。
　そんな生活が二年続いた九四年五月、美智子さんがペット雑誌で介助犬の存在を知る。木材さんは「生活に潤いを」とシンシアと名づけた犬（メス、当時五カ月）を飼い始めていたが、矢澤さんたちを応援する意味で手紙を出した。
「ウチにもヤンチヤな犬がいて、心の安らぎになってます。どうぞ、腎いワンちゃんを育てて下さい」
　すると、矢澤さんから返事が来た。「シンシアに通性があるのなら、シンシアを訓繰して木材さんにお渡しできますよ」と。
　予定しなかった返事だった。そして、その年の一一月から東京で四方月間のトレーニングを受けたシンシアは、九五年四月上旬からさらに一カ月間、自宅で矢澤さんと木材さんとの合同トレーニングに入る。
　木材さんは、野口さんとまったく同様の経験を味わった。犬は、矢澤さんが近くにいると指示に従うのに、いないと無視をする。それが変わったのは、三カ月以上も経ってから。野口さん同様、一人で犬の散歩をするようになってからだった。
　今では、落ちたフロッピーを命令しなくても拾ってくれるまでになり、万一、車椅子から倒れても、「テイク、デンワ」と言えばシンシアが電話を持ってくるので助けを呼べる。
「ベッドに足を乗せる」「靴下を脱がせる」「灯りをつける」「落ちたモノを拾う」「買い物」…。確かに、人の役に立つ介助犬。だが、なぜ人ではなく犬なのか？　木材さんはこう答えてくれた。
「僕の場合、モノを拾うとか体を起こすだけの突発的事故のために、常時、人にいてもらう必要はないんです。プライバシーの面からも、逆に精細的プレッシャーになってしまいます。また、犬との散歩で体力がついたり、会話が増えたのは副次的効果でした」

犬と自宅で自立生活
　
　グレーデルと息が合い始めた九四年八月、野口さんは「社会に戻る」ことを考え始めていた。だがその時、妻の和枝さんが過労で入院する。
　国産介助犬第一号と暮らす野口さんには取材が殺到していたが、和技さんは車椅子の体を押して、休む間もないほどお茶や料理で取材陣をもてなしていた。「その無理がたたったんです」と野口さんは振り返る。
　グレーデルがいるとはいえ、軒理や入浴など、人の介助もなけれは日常生活を送れない野口さんは、仕方なくグレーデルとしばらく離れ、群馬県にある重度障害者の養護施設や東京の病院で過ごすことにした。別れる時、グレーデルは悲しい声をあげた。
　妻とも犬とも離れ、することのない毎日。それまでの人生で一番苦しい時だったという。そして同年一二月、野口さんはもろもろの事情から、犬を手放すかどうかの選択に迫られた。このままでは、グレーデルと一生離れて暮らすことになる。
　自分はどう生きるのか。野口さんは真剣に悩み、一週間、食事が喉を通らなかった。そして結論を出す。このまま施設暮らしはゴメンだ。僕は何がなんでも、自宅で自立生活をする。グレーデルと暮らす。
　和枝さんが協力した。彼女は一二月二四日、一ヵ月という期間をもらって仮退院をする。野口さんもグレーデルも、翌二五日に自宅に戻った。すべては、グレーデルと暮らせることを証明するための示威行動だった。
　和技さんの再入院後も野口さんが自宅で暮らせるように九五年一月、大阪で福社活動をするKさんがかけつけ、瑞穂町・社会福祉協議会・介護組織などを回り、一日一六時間のヘルパーがつく、野口さんの介護体制を作り上げていった。
　神戸の施設を担当するKさんは、本来なら阪袖・淡路大震災の救援活動に身を置くべきところを、「約束は約束や」と、震災直後に野口さんとグレーデルのために来てくれたのだ。自らの思いとKさんの言動に、野口さんは人生を再起させた。
　その年の九月に、地域にこだわらない障害者や老人のための「増穂移送サービス」を自ら立ち上げたのだ。また、介護サービスの団体「ケアサービスいずみ」に週三回勤務する。家に篭っていた野口さんとは別人のようだ。
「当時は、人に迷惑をかけたくないと思っていましたが、今は、人は人に迷惑をかけるのも、それを受け止めるのも当たり前と思ってます。やりたいことはたくさんあります。一度溢れたパワーはもう止まりませんね！　そして、このパワーをくれたのはグレーデルなんです」
　実は、妻の和枝さんはいまだに入院中だ。
「女房があの時、仮退院したのは、自分の入院を犬のせいだと思われたくなかったからなんです。仮退院の時の無理でいまだに入院してますが、女房はそれほど必死にグレーデルを守ったんです。僕らにとって、グレーデルはただの犬じゃない。息子なんです」

ねばって公共施投を利用する

　木材さんは自身の経験から、介助犬を持つには覚悟がいると言う。
「こちらにもそれなりの愛情と努力は絶対必要です。犬はただ命令に従うロボットじやないんです。また、日本では介助犬の受け入れがまだまだです。悪くすれば、今まで行けた場所にも、介助犬を持ったことで行けなくなったり、いやな目に遭うこともあります」
　中途障害者になって身に染みて分かったのは、「バリアフリー」という言葉がいかに掛け声だけだったかということだった。道路の段差、スロープのないレストラン……。施設は整っていても電話予約をすると、「犬はだめ」と断られる。スーパーやホテルも同様だ。
　だから木材さんは、公共施設にはアポイントなしで出かける。初めは断られても、ねばってねばって入れてもらう。そして、指示のない限り、介助犬がいかにおとなしくしているかを確認してもらうのだ。
「一度断られたからといって、そこでおとなしく帰ってしまうと負けなんです」
　木材さんが帰る頃には、たいていの店では「可愛いワンちゃんですね。また来て下さいね」と声をかけてくれるという。
　木材さんは、JR西日本と阪急鉄道の両者に「シンシア同伴の鉄道利用」を申請していたが、七月四日と六日の試乗の結果、八月一日から盲導犬に準ずる形での決道乗車が許可されることになった。
　木材さんは行政に頼らず、自分のカで行動範囲を広げている。それは、野口さんもまったく同様だ。
　今の木材さんには、中途障害を負った時の絶望感はみじんもない。
「介助犬を通じて付き合いの幅が広がり、僕はただのサラリーマンから脱皮できたんです。シンシアは僕の娘ですよ」
　木材さんは今、介助犬の存在を知らせるために、インターネットも利用して介助犬協会の広報を担当する。そこには、矢澤さんたちトレーナーへの応援の気持ちも含まれている。

「特別な存在」の介助犬

　矢澤さんがトレーナーを始めた頃は、「何の資格もない女が…」と批判された。介助犬第一号誕生の報道があったらあったで、「たった一匹育てただけじゃないか。うぬほれるな」と不条理な非難の電話が、特に犬業界の人間から一週間も続いた。
　非難に潰されそうになった矢澤さんは、一時的な過食症に陥る。だが、「私はやりたいことをやっただけ。犬とレシピエントとが幸せに暮らすのを見るのが私の幸せ。ここで負けられない」と思いを強くする。特に、野口さんの幸せそうな顔を見るにつけ、そう思った。
　Ｈさんは高校卒業後、単調なデスクワークを繰り返す会社員生活の中、自宅でずっと犬を飼っていたことから盲導犬訓繚士への憧れを強くしていた。だが、男性のみという条件に諦めかけていたところに介助犬の存在を知り、矢澤さんに電話をすると、その元気で大らかな人柄に安心できるものを感じ、活動に参加している。
　大阪府出身の水上言さんは高枝留学でアメリカに滞在中、ビデオで介助犬の存在を知り、介助犬を広めたいという夢をもつ。会社員やフリーターを経て、昨年四月に介助犬協会に来た。将来は大阪で介助犬育成を手がけたいという夢を持っている。
　秋田県出身の斉藤淑子さんは、大学の教育学部の同級生たちが教職への道を歩む中、犬と人間とが関わり合う仕事に携わりたいとの思いを断ち切れずに両現の反対を押しきり、昨年大学卒業と同時に介助犬協会にやってきた。応援する人、理解しない人、同級生たちの反応はさまざまだ。
　実際に、介助犬協会の活動だけでは食べていけない。トレーナーの矢澤さんを含め、二〇歳代の女性トレーナー見習い全員が在宅介護、弁当屋、本の配達、犬のしつけ教室などのアルバイトで生活を支えながら活動をしている。
　欧米では、障害を持つ人を手助けする犬を「サービスドッグ」と呼び、その中に盲導犬・聴導犬・介助犬がいる。だが、日本では盲導犬（全国に八〇〇頭前後）だけが認知されて公的補助を受けている。盲導犬の場合、訓練を終了した犬には国家公安委員会の認定がつき、一頭につき一〇〇〜三〇〇万円かかる育成費の半分は公的補助がつくのだ。
　しかし介助犬と聴導犬（それぞれ一〇頭以下）は、まだ少人数の意志で支えられている「特別な存在」である。介助犬協会は、何の後ろ盾もない任意団体だ。介助犬には国による認定制度はなく、育成費用もほとんどを寄付金に頼っている。犬を引き渡す時に、育成費として一五万円をもらうだけだ。
　介助犬が世間一般に広まり、理解されるには、まだまだ時間がかかりそうだが、「自分の仕事」として取り組む人たちがいる限り、いつか、そういう時代は必ずやって来る．矢澤さんは秋から、三頭目の介助犬を育成予定である。


全国介助犬協会
http://www.s-dog.jp/index.php

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